おやすみ

 煙草屋の隣の駐車場に猫がいて、あ、猫だ、って思う。猫は駐車場のグレーの地面に体の半分をつけて寝転んでいてふかふかのクリーム色と茶色で多分飼い猫だ。ていって別に首輪とかしてるわけでもないんだけどなんとなく、毛並みいいし、太ってるし。わたしはねこねこ、ってちっちゃい声で言いながら近寄ってみる。でも目が合って、ずっと目が合っていて近づいても逃げないもんだからなんか怖くなってそれ以上寄るのをやめた。猫との接触を諦めて歩きだしてから急に恥ずかしくなってくる。「ねこねこ」ってなんだよ、って思うけどいやでも初めて会った猫の名前とか知らないしねこって呼ぶしかないだろ。ああかわいかったなあ猫。ちょっと話したかったかも。話?
 って考えてたら見慣れない道にいる。あれ。やば、家通り過ぎてる。どうしよう。気づいたのは目の前にまた駐車場があって、でも知らない駐車場だからだった。なんで知らない駐車場だってわかったかっていうと自販機がない。黄色の。道に迷いやすいわたしは今の部屋に引っ越して二年半経った今でもあの黄色の自販機を目印にして、自販機の駐車場の次の十字路を左に曲がるって覚えてなんとか家に帰っている。
 どうしよう。もうどのくらい歩いちゃったんだろう。帰れないかもしれない。だって来た道を戻っても自販機見えない状態でどこをどっちに曲がったらいいのか全然わかんない。困ったな。目の前を見ると知らない家と知らないマンションに挟まれた細長い空が、さっきまでオレンジ色の夕焼けだったのにもう紫色に変わっている。なんか星とかも見えちゃってるし……。
 星!
 星だ。すごい光ってる、ってことは月も見えるのかなって思ってぐるりと見回すけど左にマンション右に二階建ての家で左右の空は見えない。真後ろの空はただ藍色なだけで月も星もなんにも見えなかった。
 あーあ。なんか疲れちゃったな。足も痛いしどうしよう。帰らなきゃ。でも焦っちゃだめだ、って力抜こうとして伸びをして首をぐるぐる回したその時、月が見えた。あっと思う。真上にあったのかあ、だから見えなかったんだ。今日は三日月でとてもかわいい。急に気分が明るくなってくる。今日は猫も月も見れるなんてラッキー!
 さあ気を取り直して歩いてみるぞって気合を入れる。えっと星が見えたほうと反対側に戻るから、てことで星を探すけど今度はどっちを向いても星が見つからない。あれ、どうしよ、星さっきどっちだっけ右がマンション? じゃあ今度は左をマンションにして進むのかな、でも自信がない。こわい。とりあえず進行方向に決めた方の空を見るともう紫でも藍色でもなくなってて色味のないただの濃い灰色だ。泣きそうになってくる。本当に迷っちゃった。帰りたい。帰れるのかな、本格的に涙が滲み出したとき、
「にゃあ」
 って声がする。にゃあ。目線を下げると猫がいた。猫。……猫! あのねこねこの猫だ。かわいい! クリーム色と茶色の毛がふさふさしている。 触ってもいいかな、ってどきどきしながらしゃがむと、猫は合わせていた目をふと逸らして仮・進行方向と反対側に歩いていってしまう。がっかりしていたら猫が振り返った。また「にゃあ」って鳴く。で、見ていると数歩歩いてまた「にゃあ」だ。気になってついていくことにする。かわいいし。
 歩きながら、猫しゃべるかなと思って「こんにちは」って話しかけたら「にゃあん」てちょっとだけ違う鳴き方をした。話せた! そっかこんばんはだよね、って訂正すると今度は何も言わない。よかろうの意味だと思う。猫と話せたのが嬉しくてとことこ歩く彼女の後ろをてこてこついていく。彼女?
 で、歩いてたらまた駐車場が現れた。がっかりした。駐車場を見て道に迷っていたことを思い出したから。悲しくなってたら横になろうとしてた猫がまた寄ってきて今度は「みゃお」だと言う。みゃお? って思って周りを見回すと自販機があった。自販機……自販機だ! 黄色い自販機があった! いつも見えている位置で、向きの、黄色い自販機だ。わたしは猫にお礼を言う。ありがとう、ねこ! ねこは何も言わないでまた横になって体の半分をグレーの地面につけた。ぼんやり白い蛍光灯がねこのお腹を照らしている。何も言わないはよかろうの意だから、猫の名前はねこでよかったんだ。
 猫と話ができて、とっても満足した気持ちで家に急ぐ。待ってるかな、心配してるかな。自販機の駐車場の次の十字路を左に。で、ちゃんとアパートが見えて安心する。外階段をかんかん鳴らして駆け足で四階まで上がる。息が切れるけどはやく猫のこと話したいからあんまり気にならない。405号室の鍵をがちゃがちゃやってドアを開ける。廊下の奥のワンルーム、ソファベッドの上で昨日のわたしがテレビを観ていた。
「ただいま」
「おかえり!」
 遅かったね、と昨日のわたしが言う。やっぱりおかえりって言ってくれる人がいるのはいいなあ。わたしは本当に嬉しくなって今日の出来事を話した。たくさん話した。本当に楽しい一日だったなあ。わたしは満足して、昨日のわたしに溶け込んだ。枕に頭を置いて穏やかな眠りにつく。明日もいい日になるといいねって明日のわたしに声をかけておく。じゃあね。おやすみ。